「博士号は,大企業の出世に役立つのか?」
というテーマについて,ヌクレ博士が研究します.
僕は大企業で技術職として働きながら社会人博士で博士号を取り,現在は管理職をしています.この経歴だけを見ると,「やっぱり博士号があると出世に有利なんじゃない?」と思うかもしれません.
でも,僕自身は博士号そのものを出世で評価された感覚がほとんどありません.博士だから重要な仕事を任された記憶もないし,「博士だから昇進させよう」と言われたこともない.日々の実務でも,博士号が直接役に立っていると思う場面はほぼゼロです.
一方で,「博士号がなくても同じキャリアだったか」と聞かれると,それもかなり怪しいです.博士をやっていたことで人事異動のタイミングが変わり,その先で良い評価を受けたことが昇進につながっているからです.副次的には自信にもつながり,社外評価が上がったことで囲い込むために人事上役に立った可能性はあります.
つまり僕の場合,「博士だから出世した」でもなければ,「博士は出世に何の関係もなかった」でもありません.この微妙なところを研究します.
では蓋を開けてみよう.
博士号そのものは,出世ではほとんど評価されていない
まず一番分かりやすい話からです.少なくとも僕の会社員人生では,博士号そのものが昇進の直接的な評価になっている実感はほとんどありません.博士号を取ってからまだそれほど長くないので,今後は分かりませんが,少なくとも現在までについて「博士のおかげで出世しました」と言うのは違います.
以前の記事でも書いたように,技術職で評価されることと出世することは別物だと思っています.技術力や研究実績がそのまま管理職への切符になるわけではないので,博士という研究側の肩書きだけで上へ行けるとも思っていません.
実際,博士号を取って周囲の反応が劇的に変わったわけでもありません.言われるのはだいたい「博士なんだ,すごいね」くらいです.研究内容を聞かれるわけでも,博士を取った人間にはどんな能力があるのかを細かく評価されるわけでもありません.
ただ,博士号は非常に簡単な自己紹介にはなりました.「かなり研究をやった人」「何か一つを最後までやった人」という情報を勝手に補ってくれるし,多少変な人間でも「まあ博士を取るような変な人だから」と許されることがあります.期待値が少し上がる感じもあります.
この使われ方は,結構便利です.
それでも,博士号と出世が無関係だったとは言えない
ここが一番ややこしいところです.博士号自体を評価された実感はほぼないのに,「じゃあ博士を取っていなくても今ごろ管理職だったと思う?」と聞かれると,僕はかなり怪しいと思っています.
僕の場合,博士をやっていたことで人事異動のタイミングが変わりました.その結果として別の環境で良い評価を受け,その評価が昇進につながっています.だから博士号を持っていることが直接評価されたわけではなくても,博士を取ったという出来事がキャリアの経路を変えたことは事実です.
もう一つ,博士取得そのものが「挑戦した実績」として効いた可能性もあります.僕は同じ時期に管理職になった人たちを見る機会がありますが,そういう人たちは,ただ目の前の仕事をこなしてきたというより,何かしら現状を変える行動をしている人が多いと感じています.
僕自身も,これまでに新しい評価の仕組みを作ったり,チームの運営を変えたり,仕事を振り返る仕組みを入れたりしてきました.社会人博士もその中の一つです.会社に言われたわけでもないのに,自分で博士を取りに行ったことが,「こいつは現状維持だけをする人間ではない」という評価につながった可能性はあります.
ただし,これは会社から説明されたわけではありません.あくまで僕が自分のキャリアを見てそう考えているだけです.
博士号そのものはほぼ評価されていない.でも博士を取ったことによって異動が変わり,場合によっては挑戦した人間としての評価にも影響し,結果として出世につながった可能性がある.僕にとって博士号と出世の関係は,このくらい面倒です.
そして,博士号は大変です.これを取れることは,副次的には自信にもつながります.当然,転職市場を含めた社外評価も上がり,有象無象の社員から,やめてほしくない実力者へと人事上の社内評価は変わった可能性があります.それにより,人材流出を防ぐため,囲い込むために出世に役に立った可能性はあります.
実務では役に立っていない.でもキャリアではかなり役に立っている
博士号を取ると研究力や論理的思考力が鍛えられて,仕事でも大活躍する.そんなきれいな話を僕はするつもりがありません.
社会人博士にとってはもちろん博士を取りに行ってから伸びる部分も多々あるけど,それ以上にもとの実力を証明する実践の場だからです.だから社会人博士は短期修了が多いし,難易度の高い博士課程を大抵の人は修了できるのです.
正直,現在の仕事で博士号が役に立っていると思うシーンはまったくありません.博士で扱ったテーマと今の仕事も違いますし,周囲から「博士だから」と頼られることもほぼないです.管理職だからといって自分が一番の専門家である必要も感じていません.詳しい人が別にいるなら,その人に任せればいいと思っています.
そもそも僕は,博士課程で何か新しい能力が鍛えられたという実感も強くはありません.僕にとって博士は,それまで積み上げてきた研究成果や能力をまとめて,博士号という形にした作業に近かったです.研究実績そのものを作るのは大変でしたが,博士になった瞬間に別人へ進化したわけではありません.
それでも,キャリアという意味では博士号はかなり役に立っています.社外で転職について話したとき,博士号を持っていることを伝えると相手の反応が明らかに変わった経験があります.社内でも,以前は候補に見えていた配置が見えなくなるなど,人事上の選択肢が変わっている感覚があります.
もちろん,「博士だからこうしました」と説明されたわけではないので,後者は僕の感想にすぎません.ただ,博士号を取ってキャリアの選択肢が狭くなった感覚はなく,むしろ外へ出たときに説明できるカードが一枚増えた感覚の方が強いです.
そして博士号は,僕自身の自信にもかなり効きました.子どもの頃から博士になることは一つの夢でしたし,もともとアカデミックの世界へ行く選択肢も残しておきたいと思っていました.尊敬する人を振り返ったとき,後から気づけば博士号を持っている人が多かったこともあります.博士だから尊敬したわけではなく,尊敬した人が博士だったという順番です.
僕はキャリアを,自分のBiographyを育てる作業だと思っています.その考えを全部書くと別の記事になるので今回はやめますが,博士号は僕のBiographyにとってかなり大きな一行になりました.会社で不遇なことがあっても,「ここまで積んでいれば,どこかでは戦えるだろう」と思えるのは大きいです.
日本では,博士の価値が低いというより博士を知らないのかもしれない
僕の周囲で博士号について詳しく理解している人は,あまり多くありません.「博士なんだ,すごいね」とは言われますが,その先がない.僕の感覚では,日本では博士について誤解されているというより,誤解するだけの知識すら周囲にないという表現の方が近いです.
これは僕の周囲だけの話なので,日本全体がそうだと断定するつもりはありません.ただ,文部科学省の資料を見ると,日本の人口100万人当たりの博士号取得者数は諸外国と比べて3分の1程度にとどまり,企業研究者に占める博士号保有者も日本4.2%に対して米国10.6%です.単純に,企業の中で博士と一緒に働く機会自体が少ないことは背景の一つかもしれません.
海外で博士号がどこまで強いのかについて,僕自身にはまだ十分な実体験がありません.ただ,OECDの2025年データでは,データがある国では博士号保有者の収入が修士号保有者を上回るケースが多く,OECD諸国平均では約1.21倍です.これだけで「海外では博士なら出世できる」とは言えませんが,日本の会社の中だけで博士号の価値を判断する必要もないとは思っています.
僕自身も,国際的な場では博士号はかなり強い資格だと思っています.ただし,これは今後自分でも使って確かめたいところで,まだ「僕は海外で博士号を武器に成功しました」と言える段階ではありません.
また会社によって千差万別です.博士が多数在籍するような巨大なR&D機関を持っていれば話は別でしょう.研究職においての博士は入門レベルでしかないでしょう,あくまで一般的な技術職としての博士の立ち位置の一例と思って受け止めていただければと思います.
他人から見ても博士を取れる実力があるなら,僕は取るべきだと思う
ぶっちゃけタイム開始です.
社会人博士について聞かれたら,僕は誰にでも勧めるつもりはありません.むしろ「博士課程に入ってから頑張って博士になろう」と思っている人には,かなり否定的です.働きながら博士を取るのは想像していたよりはるかに大変で,仕事だけではなく家庭や私生活まで普通に削られるからです.
僕の場合,社会人博士との両立で一番削られたのは時間です.仕事も研究もやる以上,どこかを削るしかなく,家族へ十分に時間を使えない時期もありました.
一方で,全部を自分で抱えれば物理的に終わらないので,大事な仕事でも人に任せることや,休むことは以前よりできるようになりました.
そして,仕事と私生活を混ぜて無限に働く悪い癖もつきました.
博士号について,僕は少し変な感覚を持っています.学士や修士では,肩書きの方が実力より先に見える人もいますが,博士では逆に「この人は博士を取れるだけの研究実績があるのに,博士号を持っていないな」と感じる人がいます.博士だけ,実力があるのに肩書きが追いついていない側の人が結構いるように見えるんです.
これは完全に僕の主観です.でも,すでに研究実績があり,他人から見ても「あなたなら博士を取れる」と評価されるレベルまで来ている人なら,僕は取るべきだと思っています.僕自身にとって博士は,これまでの実績をまとめるの作業でした.作業量も多く簡単なものではないです.そこまでの実績を作ることが簡単だったわけではありません.
逆に,博士に値する実力がないのに,努力量や人間関係だけで何とか学位という肩書きを取ろうとする考え方は,僕は大嫌いです.博士号は実力を外から証明できるところに価値があると思っているので,そこを壊してほしくない.
そこはクソくらえです.
博士を取って何をしたいのか.そんなものは後から考えればいいと僕は思っています.僕自身,博士号が日々の仕事で何かの役に立っている実感はほぼありません.それでも異動のタイミングを変え,社外での見られ方を変え,自信をくれて,結果として出世にも影響した可能性があります.
他者評価で博士を取れる実力があるなら,取るべきです.博士を取って何をしたいかは後からでいい.何の役にも立たないけど,何かの役に立つ.それが学位です.
以上,ご清聴ありがとうございました.
